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2013年8月16日 (金)

協調性

この前まで日本にいる間、「あまちゃん」を見ていました(実は続きが見れないのが少し悔しかったりもして…)。その時にアキちゃんは「地味で暗くて向上心も協調性も存在感も個性も華もないパッとしない」と表現されていました。僕は向上心も存在感も個性もありますが決して協調性があるとは言えない性格です(あえて「地味」と「暗い」と「華」はここでは触れない事にします)。

その台詞を聞いた時、協調性とは何だろうか?と少し考えてしまいました。以前、叔母と話をしていた時に叔母が僕が小さな時の事を「よく言えば個性的な子、悪くいえばちょっとわがまま」だったと表現していました。そういえば思い当たる事はいくつかあります。

これは僕が大きくなってから聞いた話なのですが僕が小さい時、某国立大学附属幼稚園の入園試験に行った時の話で、こういう事があったそうです。その入園試験で子供達に遊ばせてどの様な態度を取るのかを見る試験があったそうで、その時にトランポリンがあったそうです。その時に僕はそこで遊びたかったのですが他の子供達がいっぱいいたのでなかなか遊べない。ようやくその時間が終わって他の子供達がいなくなってから一人でそのトランポリンの所まで行き、遊び始めたそうです。もちろん、係の先生にすぐに連れ去られて次の所に向かわされたそうですがそれをものすごく嫌がったとか。母曰く、「あれを見たとき、あんたは落ちたな、と思った」との事。僕は全く記憶にない事なのですがなんとなく自分で納得できてしまいました。

またその頃、幼稚園、もしくはナースリースクールでよく泣いていたそうです。実はこれも僕はほとんど記憶がないのですがずいぶん大きくなってから母が僕が通っていた幼稚園の先生にばったり街中で会った事がありました。その時に初めて母は僕が毎日、幼稚園(かナースリー)で泣いていたらしい事を知ってビックリ仰天してしまった、という事がありました。ずいぶん前に一度、その話の事をこちらで書いていますね。

母が分析するに、おそらく僕は他の子供たちと一緒に遊ぶと思った様に物事ができないからそれが嫌で泣いていたのだろう、との事。その先生はどうやら毎日のように泣いた僕を連れて外の散歩に行ったらしく、そう言えば幼稚園から先生と二人だけで散歩に行った記憶はかすかに残っています。

協調性とはいったいどういう事なのでしょうか?日本語版wikipediaにはこのように表現されています。

協調性とは異なった環境や立場に存する複数の者が互いに助け合ったり譲り合ったりしながら同じ目標に向かって任務を遂行する素質。
(中略)
元々日本社会は農村社会の延長線上に位置づけられ、協調性が最重要視されてきた。

更にはこう書かれています。

社会における協調性の重要度は低下したわけではなく、労働者は協調性の欠如が原因で普通解雇となる場合すら存在する。

なるほど…。何となく身に覚えのある事が書いてあります。今になって考えるとかつてつくばの某ガス会社で働いていた時に僕が非常に理不尽な理由で「解雇」(まあちょっと違うのですが似た様な物です)にあったのも「協調性の欠如が原因で解雇」というのと同じ事ですね。

その頃、言われた仕事をちゃんとこなして何もない時は「なにかできる事はないか?」と聞いて廻っても「何もない」で仕方がないから机に座って仕事に関連のあるを勉強していて協調性も何もないとおもうのですがそれでも「解雇」されてしまいすごく理不尽に思った記憶があります。何かした記憶もないし何もしなかった記憶もない。それにもかかわらず…、と思ったのは今でもよく覚えています。もちろんそういう事があったからこそ結局的にアメリカに戻ってきて今があるのですが…。

昨年の春に日本にいた時に従弟と一緒に旅行に行った時に話です。ある晩、従弟と話をしていてビックリする様な事を言われました。実はそれまで従弟は僕が中学生の時にいじめられっ子だった事を全く知らなかったらしく、その事にビックリしていました。それにビックリしながらも僕は従弟が次に言った事にもっとビックリしました。従弟に言わせれば僕は「どうしてそういう言い方をするの?」と思う様な事を言うらしいです。僕の事を知っている人ならまだしもそうではない人は僕の事を誤解してそれが原因でいじめにあったのではないか?という(勝手な)推測をされてしまいました。実はこちらにも書きましたが、ほとんど運が悪かったとしか言いようがない事がきっかけで僕に対するいじめが始まったのです。それを従弟に説明しても「でも、お前が何か言っていたのを聞いていたからじゃないか?」と決めてかかる始末…。でもそれって中学一年生の四月十日前後でまだ右も左もわからなかった時の話ですし、僕がいじめられっ子になるきっかけを作った同級生は同系列の小学校からの持ち上がり組ではなく、中学から入って来た子だったので僕との接点はそれ以前は全くありません。したがって僕が何かを言ってそれが原因になったなどという事はあり得ないはずです。

その話をしていて僕が従弟に言ったのは「でもね、僕はそんな連中に媚びてまでして仲良くなりたくない」という事。些細な事で僕の事をいじめるようなそんな連中とどうして無理してまで僕が仲良くならなきゃならないの?と思うのです。これは今でもそうです。その僕の発言に従弟は「どうして『そんな連中』って決めつけるの?」と言う始末…。これはもう平行線だな、と思って僕は議論をするのを止めました。そもそもそんな三十年ぐらい前の話を今更してもほとんど意味もありませんし…。おそらく、従弟の方ではそうやって何となく仲良くなる事が合わない同級生達の間を立ち回る防衛機制だったので僕にも同じ事が通じるはず、と思っての発言だったのでしょうが…。従弟が言うには転校などの関係で嫌な目にあった事があったらしいですがそれでも程度の差が僕にやられたいじめとは次元のレベルが違う様です(釘とペンチの話をしたらギョッとしていましたからね)。

おそらくそうやって僕が「媚びたくない」というのが協調性のない事になるのだろうなぁ、という気はしますがでも無理な事は無理。そんな無理をしてまでどうして好きでもない連中と仲良くならなければならないのか?とどうしても思ってしまうのです。しかもそうやって媚びて「仲良く」なっても結局は単なるパシリになるのがオチだったのだろうな、と思いますし…。しかもパシリなので何かの拍子に簡単にまたいじめられっ子に降格されてしまいますし、またこちらまでもがいじめっ子(の手先)になって他の子をいじめる側になる可能性もありますし…。どう考えても全くいい事がありそうではありません。僕にはどうしてもそうやって媚びて生きていくという事ができそうにないし、また、そうやってお互いを探りながら生きて行くのが何だかなれ合いになってしまってお互いの為にならないとしか思えないのですね。

ただ、一つ気にかかる事があります。先ほど引用した日本語版wikipediaによると協調性とは「複数の者が互いに助け合ったり譲り合ったりしながら同じ目標に向かって任務を遂行する素質」となります。でもそれってよくよく考えるとある目標に対する事であり、日常的に普通に生活をしている上では協調性という概念がないのではないか?という気がします。例えば職場であるプロジェクトに対して同僚達とともにそのプロジェクトを成功させようと協力して努力しあう、これは協調性と考える事ができますがその反面、例えば僕が中学生の時にいじめられっ子だった時の事を考えてみるといじめっ子が勝手に僕を標的にしていた上に僕がいじめられっ子になる発端を作った子の存在も僕はその時、特に感じていませんでした。そういう状況で何らかの「目的」があったとは到底僕には思えません。そう考えるとそこに果たして「協調性」なる物が存在し得たのか?と疑問に思ってしまいます。

そもそも、このwikipediaの定義を考えるに協調性とは「出しゃばらない様に周囲の目を気にしながら物事を運ぶ素質」ではなくて「お互いの事を尊重して足りない所を補って物事を運ぶ素質」の事が本来の姿ではないか?と考えてしまいます。でも実際には日本では少しでも違う事をすると「出る杭は打たれる」となり、少しでも違う事をすると「協調性がない」というレッテルを貼られてしまっている様な気がします。本来の協調性とは多分、お互いに違いを理解して補足しながら前に進もうとする事を差している言葉ではないのか?それは信頼関係にも密接に結びついているものではないのか?という気がしてなりません…。

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