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2014年2月 9日 (日)

1Q84

2009年の六月から一年間、CERNにいました。最初しばらくはとりあえずCERNのキャンパスの宿舎に住んでいました。CERNでは夏の間は学生が研究に来るのでキャンパスの宿舎は満員状態で十日程しか宿舎の予約を確保できず、早々に住む場所を探して引っ越す事になりましたがそれでもそれはそれで面白い数日でした。その時に会ったドイツ人の学生の子がその時、村上春樹の本をドイツ語で読んでいました。何を読んでいたのかは本の題名がドイツ語で書いてあったので全くわかりませんでしたが(多分、聞いたと思うけど記憶にありません)著者はHaruki Murakamiと書かれていたのですぐにわかりました。村上春樹の本が外国語に翻訳されている事は知っていましたがまさかCERNで読んでいる人に会うとは思わなかったのですごく驚いたのをよく覚えています。

さてそういう僕も先日からその村上春樹の1Q84を読み始めました。特に読もうと思って読み始めたのではなくて時間があるから読もう、というパターンで読み始めたので少し読んでそれから次に読むのは二日後、という状態でなかなか進んでいなかったのですがそれからしばらくしてある日、職場で三年生の学生が1Q84の英語版のペーパーバックを持っているのを見てこれまたビックリしました。アメリカ人って学生でもあまり本を読みません。そういう学生だらけの中、一番勉強が忙しい三年生が「趣味」で本を読んでいてそれも村上春樹の英訳された本だ、となったらやはりビックリするのが当たり前だと思います。それは確かに日本で「アメリカでも知られているあの村上春樹」なのですがやはり一般のアメリカ人には馴染みのない名前です。そもそも僕が普段、日常的に触れているのはまあそこそこに優秀な地方大学のまあ優秀な学生と職員ですから「一般のアメリカ人」とは言いがたいのが現状。

まあそれから少し真面目に1Q84を読み始めて結局、一週間ちょっとで読んでしまいました。元々、僕は日本語で文章を読むのがかなり速い方なので夜にちょっと読むだけでも一週間もあれば何とかなってしまいます。また村上春樹の本は決して読みにくい文章ではないのでその辺りも速く読む事のできた理由の一つではないか、と思われます。結果としては僕の方が学生の子よりも後から読み始めて先に読んでしまった様ですが読み終えてから英語版の1Q84を持って来てくれたので週末の間だけ借りて来ました。

どうしてかって?だって英語でどの様に表現されているのか気になる事がたくさんあったからです。例えば、第三巻でよく出てくる「福助頭」はいったいどの様に英語になっているのか(Bobbleheadと表現さています)?とか例えば1Q84は1984と掛けてある事は説明されているのか(されていません)?とか気になったからです。他にも例えばドウタはdohtaでマザはmazaなので果たしてそれが本来ならばdaughterでありmotherである事がどれだけわかったのだろうか?という気はします。その一方でパジヴァはperceiverでレシヴァはreceiverと極めて普通。確かにパシヴァとレシヴァに関しては本文中で「perceiverとreceiver」と表現されてはいますがでもだからと言って日本語でパシーヴァーとレシヴァーと表現されていたわけではないのでここは統一性を持たせてpacivaとrecivaとかするとかいくらでもできた様な気がしてなりません…。

他にも少し面白いな、と思ったのは所々に日本語ではない表現がされている所がないでもない様です。例えば第一巻の二十章は日本語ではこう書かれています。

「平氏の敗北はもはや決定的になり、清盛の妻時子は幼い安徳天皇を抱いて入水する。」

ここは英語ではこの様になっています。

The Heike side was doomed to defeat, and Kiyomori’s wife Tokiko, the “Nun of Second Rank,” plunged into the waves holding her grandson, the child emperor Antoku, in her arms.

日本語では二位尼という事はどこにも書かれていませんがなぜか英語ではそれが出てきていますが、少し解釈が間違っています(時子の階位は従二位だったのでそれが由来で二位尼なのですが従二位がsecond rankというのはちょっと違いますね…)。英語版1Q84を全部読んだわけではないのでよくはわかりませんが他にもこういう所があるのであろう、と思われます。

他にも例えば「筑波大学の『第一学群自然学類数学主専攻』という奇妙な名前」は"Tsukuba University’s oddly named “School 1 College of Natural Studies Mathematics Major"という表現になっていますが実際に筑波大学の方では第一学郡の事は"First Cluster of College of University of Tsukuba, College of Natural Science"と表現してある様でこの手の下調べは若干少ないような気がしてなりません。

中学生から高校生の頃、僕はものすごくたくさん本を読みました。たまに小説以外の物も読みましたがだいたいほとんどが小説。特にSFやファンタジーが好きだった(その傾向は今でもあります)のでその頃はまだまだその分野は翻訳物が多かったので翻訳された本をたくさん読みました。その影響もあって高校生でアメリカに行った時にはたくさんの本を買って帰ったぐらいでした。日本語で訳して表現されてある事が本来はどのように書かれているのか、という事に気になったからです。面白い事に、日本語で読んでいた時に全く気にならなかった表現が後で英語を読んでからまた日本語を読むと取って付けた様な表現がものすごく気になったりしたりした経験がたくさんありました(特に古い翻訳だとその傾向が強かった)。別に訳者の方の技術をどうこう、というわけではありません。ただ、そういう事がある、という事です。

で、今回、1Q84に関してはある意味でその逆を初めて経験できるかな?と思ったからです。確かに村上春樹以前にも日本の作家で英訳された方は何人もいますが完全に読者層が違うのですね。村上春樹の本はアメリカでもまあ普通の書店で手に入るのですがこれが他の作家になると全く売られていません。少し前に書かれた記事ですがこちらにその様な事が書かれています。

実際、本当に村上春樹以外の日本人作家の本はアメリカでは見かける事がありません。ひと昔前ならば「外国文学」のところでまれに谷崎潤一郎や三島由紀夫などがまれに本屋さんで見かけられる事がありましたがせいぜいで一冊、二冊程度しか在庫がなくどちらかと言えば物の試しに置いてある、という所でした。作品としてもいわゆる大衆路線とは明らかに違う作品がほとんどで一部の人には興味があっても、という感じがどうしても拭えない物でした。

そもそも、アメリカ人は一般に英語以外の物を読むという事をあまりしません。せいぜいで「古典」として知られている中東からヨーロッパの文学を読む程度で日本を含めたアジアの文学をあえて読むという事はあまりありません。僕が学生だった頃に取った英文学の授業で読んだのはジェイムス・ジョイスやヘミングウェイなどで全てが元々英語で書かれたものばかり。それから数年してカリキュラムの改変にともなってようやくWorld Literatureに切り替わり少しは元々は外国語で書かれた物を授業で扱う様になった様ですがそれでもその数はあまり多くありません。具体的には「源氏物語」などが読まれているらしいですが、でも考えようによったら日本語の古文が英語の現代文になっているのもまあ変な話といえば変な話です(場合によったらかえって読みやすかったりして…)。

別にそれは決して悪い事ではないと思いますが決していい事でもありません。例えば僕は若い頃にたくさんの本を読みました。その多くは英語から日本語に翻訳された物でした。日本では当時(今でもそうですけど)多くの本が英語から日本語に翻訳されて出版され読まれていました。したがって日本で例えばシャーロック・ホームズやアルセーヌ・ルパンを知らない人はほとんどいないはず。おそらく僕より少し上の年代の人から今の中学生ぐらいまでなら何らかの形でホームズやルパンの本を読んだ事があるはずです(それが子供用の抄訳であったとしても)。ところがアメリカではホームズを知ってはいてもルパンは知らない人がたくさんいます。ルパンを書いたルブランはフランス人なのがその理由ではないか?としか考えられません。おそらく、「Lupinって誰?」と今のアメリカ人に聞いたらほぼ間違いなく「ハリー・ポッターの登場人物」という答えが返ってくるだろう、と思われます。他にも普通の人は李白の名前さえも聞いた事がない。日本文学に至っては普通の人は何も知らないという事がほとんど…。

この学生に「どうしてこの本を?」と尋ねてみたら「本屋さんにあったから何となく」との事。ほとんど何の予備知識もなく何となく面白そうだったから買って読んでみる事にしたとの事。他にも例えば「NHKが何の事かわからずどうして集金に行かなければならなかったのかがNHKが何の事か調べるまでさっぱりわからなかった」とか言っていました。日本の翻訳本では訳注という物があってそこに色々と説明が書かれているのですがアメリカの翻訳本で訳注という物を僕は見た記憶がさっぱりありません。これが逆の立場だったらおそらく訳注があって説明がされていたのではないか?と思うのですが…。確かに訳注ってあればあったで困るものである事もありますし、本が読みにくくなる事もあったりもするのですが…。その辺り「知らなかったら自分で調べてね」とのがある意味アメリカ的なのではないか?と思ってしまいました。学生の子、曰く「訳注があったら便利なのに」とは言っていました。

日本にいるとまるで村上春樹の人気はアメリカでもものすごい、と思うかもしれませんが実際の所はちょっと地方に行くとこの程度、というのが現実なのですね。まあでも面白い経験ではありましたね、今回の一件では…。

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