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2014年8月21日 (木)

オマハで二十五年

久々に更新です。この所まあそれなりに忙しかったのもありますがそれ以上に少し休みも欲しかったからしばらく更新がないままでした。これからまた少し書き始めますのでどうぞよろしくお願いします。

さて、記憶が正しければ二十五年前の今日、僕はオマハに来ました。日本を出たのが八月十日頃。それから十日程、高校生の時に一年間を過ごしたニューヨーク州のキャナンディグアに行ってそれからオマハへ向かいました。それまでは若干の予備知識はあったもののネブラスカもオマハもクレイトン大学も簡単な事しか知りませんでした。当時は今とは違ってWikipediaはおろかネットもなかった時代なのでもっぱら情報は本で調べるのみ。本で手に入る情報は限られていました(それを考えるとネットは偉大だな、と思います)。

オマハまでは飛行機でロチェスターから確かシカゴまで行き、それからシカゴからオマハに行ったはずです。大学の国際プログラムの方には先にその日の何時の何便で到着する予定、と知らせてあって向こうからも「誰かが迎えに来る」との事でした。アメリカではその頃はまだ搭乗ゲートまで誰でもセキュリティくぐれば誰でも行けた頃。しかし、ゲートには誰もそれらしき人はいません。まあ預けた荷物もあったのでそれを回収しに行きます。それから待つ事しばらく、荷物が出て来て荷物を回収して怪しげな東南アジア系の人がやって来ました。それが大学からの迎えの人だったのですが僕の偏見かもしれませんでしたがなんだか胡散臭い。それでも大学のロゴが書かれている車だったのでそのまま車に乗ります。

それから無事に大学のキャンパスまでは連れて行ってくれたのですがキャンパスでそのままおしまい。それからどうすればいいのかを尋ねたらなんと、「いや、僕らここの学生じゃないから…」という返事。結局、その後は自力で何とかしました。幸い、高校で一年間過ごした為に英語には不自由してはいなかったので何とかなり、無事に入寮しました。

最初に寮の部屋を見た時に思ったのは「騙された」。当時の一年生の寮は基本的には八畳間より狭い空間に二人寝る様になっていたのです。それもアメリカなので当然、布団ではなくベッド。実際に使える空間はせいぜいで三畳程度。部屋にはベッド二つに机が一つ備え付けてあり、また各部屋に洗面台が一つとクローゼット(の様なもの)が二つ。それが八畳よりも狭い所にあったのですから狭いはずです。その年の五月だったか六月だったかに東京でクレイトン大学の説明会があってそれに出席して寮の部屋の写真などを見てはいたのですが写真では伝わらない現実にビックリしました。

当初、クレイトンに来るまでは実は僕は他の日本人と特に知り合うつもりは全くありませんでしたが入寮とともにその予定は崩れてしまう事になりました。なんと、僕が入寮した時にロビーで二人程、他の日本人の学生がたむろしていたのです。彼ら曰く自分が入寮した時に英語で困ったから新しい日本人もそうだろうと思ったから、との事。まあわからないでもありませんがその時にすでに英語がちゃんと話せた僕にはむしろよけいなお世話だったのですけど(実は僕の英語の方が彼らの英語よりもうまかったりしていました)。まあでもそれはそれか?と思っていたらなんと同じ階に他に二人の日本人がいてそのうちの一人は隣の部屋だったのですからその段階で当初の目論みは崩れてしまいました。その後で知ったのは実は同じ階には他にももう一人別の日本人もいてまあそれなりに日本人が周りにいました。その関係もあって一年生から二年生にかけては本当に周りに日本人が多かったです。後に僕はそれで大学の日本人社会の人間関係で結構苦しむ事になったりもします。アメリカに来てまでまさか日本人の人間関係、それも上下関係で苦しむとは思いもしませんでした。

当時のオマハは今ほど西に広がっていなくて100番台の道はすごく遠い所の様な気がしました(まあ実際、遠いのですけど)。でも今では100番どころか200番ぐらいまで道があるので困ったものです。人口も多分、当時よりも今の方が多くなったのではないか?と思われます。オマハの街もそれとともにかなり変わりました。車も昔よりも混雑する様になりましたし西の方では道路が新しく建設されたりしたので全く違います。

大学の方でも確実に当時よりも今の方が大学の学生の数が多いです。当時はおそらく一般化学を取っていた学生の数がせいぜいで250人程度(当時は一般化学は六人で教えていて一クラスあたりだいたい40人前後だったはずです)。今ではそれを十二人で教えて一クラスだいたい45人程度なので倍以上の一般化学の学生がいる計算になります。大学全体の学生も同じく倍ぐらいになっているはずです。その反面、今では日本人の数が本当に少なくなりました。当時はおそらく全体で五十人程度いたのだろう、と思われますが今では日本人の学生がいるかすらも定かではありません。留学生の数は決して少なくはないのですが日本人がいなくなった事は確かな様です。例外的に僕が来た次の年に一時的に二十人程来た事がありましたがこれはそもそもが僕が来る前からの全体的な傾向だった様です。

考えてみるとこうして二十五年もオマハを出入りしていると大学の方でもかなり違います。学生の数もそうですが建物がまるで違います。そもそも僕のオフィスのある建物は十年程前に建てられたものなので僕が来た時は存在していません。当時は24番通りよりも東は基本的には駐車場以外に何も存在していませんでしたが今ではキャンパスがかなり先まで続いています。建物の中には解体されてしまって存在しない建物や今では全く違う事に使われている物などもあります(まあ新築された物の方が多いのですけどね)。

職員もかなり変わってしまって考えてみると僕が授業を取った先生も今では数名が残っているのみ。ほぼ全員が引退したかもしくは人によっては亡くなられた先生も多くいます。学部の職員も僕が一年生だった頃には先生が十名だったのが今では二十名程とこれまた倍程度の人数です。学部によっては以前は存在しなかった所(例えば環境学とかは僕が学生になってからできました)もある一方で無くなってしまった所(つい最近では気象学が無くなりました)もあります。

教え方もかなり変わって来ました。例えば僕が教えている機器分析も基本的にはほぼ同じ実験をしてはいますが今ではほぼすべての分析計がコンピューター制御。僕が学生だった頃はコンピューター制御の分析計は一つもなく、せいぜいで「マイコン制御」の分析計があったぐらい。それもマイコン制御なので毎回、使うたびにプログラムをし直さなければならず、使う前にキーで何度も入力、という事をしなければならない物までありました。実験結果の計算に使っていたコンピューターはなんとApple IIで師匠が書いたBASICのプログラムで計算をする、という事をしていました。

当時は当然の様にメールもネットもなくて母や叔母が時々、新聞を送ってきてくれたりしていました。航空便でも一週間程届くのに時間がかかるので古い新聞を読む事になるのですがそれを隅から隅まで読んだ物です。ネットで簡単に日本の情報が手に入る今からはちょっと考えられない話ですがそういう物だったのですね、当時は。今でも手に入らない物は手に入らないし情報もある程度断片的にしか入らないのでわからない事もたくさんはあるのですが完全に知らないわけでもありません。

変わったと言えば一番変わったのがコンピューター関連。特にネットが当たり前になってからはこれは変わりました。アメリカの方がネットの普及が早かったのでだいたい1996年だかにはもう僕はネットを家から使っていました。最初の頃は大学にモデムで繋いでテキストブラウザ(ネットの文章は読めても画像が見れない)でしたがそのうちにNetscapeなどを使える様になって1999年頃にケーブルインターネットを導入。この頃まではアメリカの方がまだネット接続は日本よりも進んでいました。当時から一番興味があったのがネット電話。何がつかえるのか?という事で色々と試しました(まあ結局、コンピューターならばSkypeなのですけど)。今ではスマホまで普及しているので25年前からは考えられない話です。

そういう意味でも世界は「小さくなった」のですがそれでもまだまだ実際に日本に着くまでの時間を考えるとなんだか全然、小さくなった気がしませんね…。しかしまあオマハに二十五年も出入りする事になるとは全く想定外の話です。この先、まだ何年オマハにいるのだろうな?

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