« 英語は論理的なのか? | トップページ | 周期ゼミ »

2015年6月11日 (木)

十六歳の年に

先日、そのうちに高校生で留学していた時の話を特に書いていない事に気がつきました。そこで今回はその時のお話です。僕が十六歳の時なので三十年程前の話になります。そう考えるとずいぶんと昔の話ですね…。事の発端は兄が十六歳の時に一年間、ロータリーの交換学生として一年間アメリカに行っていた事に始まるのでしょうか?兄がどういう経緯でアメリカに留学する事になったのかは今ひとつよく記憶にありませんが兄が行ったので僕も行く事になったような物です。

当時は交換留学などをすると高校の単位の関係から自動的に日本の高校は留年する事になっていました。兄はその事を行く前にある程度心配していましたしまた後から少し後悔していたフシがあるのですが僕は逆に早く日本から抜けだして別の学年になりたくてなりませんでした。そのぐらい高校が嫌だったのです。高校では中学の頃とくらべてそれほど悲惨な目にはあってはいませんでしたがやはり中学でのいじめられっ子であった影響が少しあったのです。

実は高校に入学した時には中学での嫌な思いを忘れて新しい学校でやり直すつもりでいました。ところが隣のクラスに元いじめっ子の一人がいたのでそれもかなわず、いじめられはしませんでしたが思惑が違うそういう生活を強いられていました。そういう中、兄の様に一年間留学する話が入ってきたので行く事に決定しました。一学期の後の夏休みから一年間、アメリカに行ったので多分、話が来たのは五月の半ばか終わり頃。六月にはもう決定していて手続きが始まっていたのでしょうから今から思うと高校が始まって一ヶ月ちょっとでもう高校が嫌になっていたのですね…。三十年も経過した今ではその頃、本当に何が嫌だったのかも記憶にありませんがそういう物だったのですね、きっと。

さて僕が行ったのはニューヨーク州のキャナンディグアという田舎町。日本語版Wikipediaでは「カナンディグア」と表記されていますが現地の人はキャナンディグアと発音しているので僕は現地の発音にしたがってキャナンディグアとここでは表記します。当時の僕の英語の能力は普通の高校生並みと大した能力ではありませんでした。もっとも高校の英語の授業の内容なのでちゃんと理解していても実際に会話をする事はほぼ不可能なレベルでしたが…。

最初の頃はとにかくどこに行くにも辞書を持ち歩きました。アメリカに行く前に三省堂のデイリーコンサイス英和辞典と和英辞典を二冊買っていってそれをとにかく使いました。後になってから思ったのですがこの時に二冊別々の辞書にしたのは賢い選択でした。なぜか?だって自分の言いたい事を調べるのには和英辞典が必要ですが相手が何を言いたいのかを理解するには英和辞典が必要です。だから僕が和英をめくっている間に相手に英和を渡して二人でお互いに言いたい事を調べるという事が可能でした。合本になっている英和・和英辞典ではそれはちょっと無理。本屋さんに行ったらたまたま合本版が売っていなかったから二冊別々の辞書を買ったのですがこれはたまたま運がよかった、と後で思いました。

このデイリーコンサイスは実は未だに所有していて職場のオフィスに置いてあります。

Dictionaries
さすがに今ではほとんど使う事はありませんが何となくオフィスに置いてある物の一つです。ちなみにオフィスには高校入学時に買った(というか買わされた)研究社ライトハウスも置いてあります。こちらはたまに使う機会があります(半年に一度ぐらい意味が間違っていないかどうかを確実に確認する為に使う程度。ほぼ無くても大丈夫なのですが…)。

Lighthouse
どちらも箱があったのですがさすがに箱はどちらもとっくの昔に壊れて無くなってしまいましたね…。このライトハウスも高校生でアメリカに行った時に持っていった辞書です。最初の頃はライトハウスはカバンに入れてデイリーコンサイスをポケットに入れて両方を使っていました。デイリーコンサイスだと細かい内容を理解するにはやはりちょっと役不足だと思ったからです。ライトハウスの方は和英辞典も買って持っていったのですがこちらの方は英和ほど出番がありませんでした(こちらもオフィスに置いてあります)。

さて今はどうだかさっぱりわかりませんがその当時はロータリーの交換留学生だと一年の間に何度かホストファミリーを動く事になります。僕が最初にお世話になった家は確か三週間か四週間程、仮にお世話になった家でした。その家になった理由は単純で、その家の息子さんが数年前に日本に一年間いたので日本語を若干話せたからです。ただ彼は既に大学生だったのでとりあえずその家に預けてその間に同じぐらいの年齢の子供がいる家を探す、という事になっていたらしいです(が右も左もわからなかった僕はそれを後になってから知りました)。

東海岸の学校が始まるのは九月に入って勤労感謝の日(Labor Day)が過ぎてから。確かその週末に二軒目のホストファミリーの家に連れて行かれた記憶があります。二軒目の家には子供が二人。男の子は僕の一つ年下で女の子は僕の三つ年下でした。当時の僕の英語は今から考えるとひどいもので一体どうやって生き残れたのかな?と不思議なぐらいです。高校では最初のしばらく、三、四ヶ月程度は何が起こっているのかさっぱりわからずとにかく言われた教室に言われた時間に行く様にしていました。まあその留学した一年は日本の高校には全く関係のないに等しい事で成績が日本の高校に影響するわけでもないのでどうでもいいと言えばどうでもいい事だったのもありますが今にして思うとエラい事をしていた物です。まあ基本的にはお客様扱いだったのですね。

それでもそのうちだんだんと英語を理解してきてなんとかなる様になりました。本当に英語が何となく話せるなあ、と思い始めたのは十一月から十二月にかけての頃。まだ若かったし周りに全く日本人がいないので英語しか周りは話さない状況だったので否応もなく英語が上達していったのだと思います。

ロータリークラブの留学生だったので一ヶ月から二ヶ月に一度ぐらいその地区にいるすべての交換留学生を集めて交流会とでもいうのでしょうか、が行われる事がありました。始めてのは十月頃だったかなあ?それから寒い時期(多分、一月か二月頃)にもあったのを覚えています。もう何度かあったはずですがよく覚えているのがその二度。最初の十月だったかの時、一週間程の交流会だったと思うのですがその時にある夜、近所の高校でローラースケートの交流会がありました。スケートは生まれて始めてだったのですがスキーを長年やっていた経験からバランス間隔には優れていたのですぐに滑れる様になりました。最初はみんなで適当に滑って、というパターンでしたがしばらくしてからカップルで手を繋いで滑れ、となり僕は一旦着席。しばらくしてから地元の女の子が僕の所にやってきて一緒に滑りたい、との事。二人で何周かしました。英語がまだロクに話せなかったのであんまり話はできませんでしたがちょっとうれしかったのはよく覚えています。しかし僕のどこを気に入ってくれたのかな?と未だに不思議…。

それから正月過ぎに三軒目のホストファミリーに引っ越しました。その家は一家全員でスキーをしたのでスキーが大好きな僕にはうってつけの家でした。折しも高校でも競技スキークラブが発足したので僕も参加する事に。友人の数が劇的に増えたのはその頃から。英語もなんとかなる様になっていましたしクラブに所属していると同じクラブメンバーと知り合いになります。その関係でかれらの友人とも仲良くなって、という理屈です。多分、あの年が一年で一番滑走量が多かったのではないかな?と思います。土日の少なくとも片方にさらに木曜日の夜はクラブ活動で三ヶ月ぐらい滑ったのでとにかく滑った一年でした。スラロームの練習試合が二回あったのですがその二度目の時の最終成績で僕が一位だったのは今でもよく覚えています。僕はそれほど速くはなかったのですがポールセットがやたらと難しく、旗門不通過が続出。二本とも完走した選手で僕のタイムが一番よかったのですね。練習試合だったので表彰も何もありませんし記録もありませんが今でもよく覚えています。

春になってからは今度は陸上をやってみる事にしました。僕は1500メートルと3000メートルを主にやりました。この時にもっと友人が増えました。その頃には僕の存在は高校ではよく知られていましたし英語も話せる様になっていたのである意味で一番おもしろかった頃だったかもしれません。土曜日に大会に出場して、という事も今でも忘れられない経験です。

今でもあの一年間がなかったら違った一生を暮らしていたのだろうな、と思います。あの一年間がなかったらおそらく、今こうしてアメリカにいた事はなかったのだろうな、と思います。あのまま高校をそのまま通っていたらきっと僕はダメになっていたんじゃないかな?という気がしてなりません。その一年が過ぎて日本の高校に復学してすぐにわかったのは英語は基本的にほとんど勉強しなくても点数が取れる様になっていた事。だから後の強化さえそれなりに勉強すれば高校で成績優秀者になっていた事。そういう事もあの一年がなかったらありえなかった事です。学年が下でも成績優秀者だと元いじめっ子にも何もされる事はありませんでしたし、いろいろな意味で運命を変えた一年だったな、と今でも思います。

それからキャナンディグアには二度程行きました。日本の高校を卒業してオマハに来る前に一週間程一度、それから2001年に一度の二度です。今では当時の友人たちとも連絡がつかなくなってしまいました。三軒目のホストファミリーの次男の子とはFacebookで繋がっていますがさすがにもう二十年以上、会っていないので直接な繋がりはなくなってしまいましたね。化学で同じクラスだったある女の子はずいぶん長い間、文通をしていたのですがオマハに来てしばらくしてそれもある事情があって途絶えてしまってそれっきり。今ではいい思い出です。若くて必死で毎日を一生懸命すごしていたな、と今でも思うそんな一年でした。

« 英語は論理的なのか? | トップページ | 周期ゼミ »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1537785/60336515

この記事へのトラックバック一覧です: 十六歳の年に:

« 英語は論理的なのか? | トップページ | 周期ゼミ »