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2015年8月

2015年8月10日 (月)

ルイジアナで

もうずいぶん昔の話になりますがまだ学生だった頃のある夏、うちの大学で神学で社会正義の授業を取った事があります。うちの大学はカトリック系、それもイエスズ会系なので神学や哲学をいくつか取らなければならない様になっています。この僕が取った授業は当時は夏の間だけ教えられていた授業で三週間、ルイジアナ州の田舎町に行ってそこで昼間はボランティア活動をして夜にディスカッション主体の授業が行われる事になっていました。人数的な制約もあるので毎年、参加する人数もせいぜいで十名程度というかなり特種な授業でした。

元々は授業を取って旅行もできておもしろいだろう、と思ってわりと軽い気持ちで取る事にしました。授業がかなり特種なので授業の登録時に特別許可証を貰って、という事でまず教えている先生に話をしに行きました。たまたまその年はその授業に参加したのは女の子ばかりで面白くない、と思っていた所に僕がやってきたのですぐに許可証をもらえました。

さて夏休みに入ってすぐの頃、五月の半ばに出発です。大学から大学所有のバンに乗ってルイジアナ州のグラン・コトーなる街まで出発です。運転は交代交代でみんなが運転しました。途中でミズーリ州のセントルイスで一泊してグラン・コトーに到着。それからまずは宿舎になる所でミーティング。翌朝から実際に仕事にとりかかります。

南部に行くのは僕はそれが始めて。話には聞いていましたがやはり南部、それもルイジアナの田舎の人たちの言葉が訛っている事!現地の人たちが言っている事を理解できる様になるまで一週間近くかかりました。ルイジアナの辺りだとかなり発音が異なっていてまるで日本で言えばズーズー弁を聞いている様なもの。

ルイジアナ辺りは元フランス領。その影響は現代でもあちこちに見られます。そもそもグラン・コトー、Grand Coteauなどは明らかにフランス語の地名ですね。他にもあちこちにフランス語の影響が見られる所。したがって現地の英語も若干のフランス語の影響を受けていてその上で元々は奴隷として連れて来られた黒人たちの現地の言葉も混ざって何とも言えないそんな不思議な訛りが存在する所です。名前も当然の様にフランス語の影響が多く、例えばケネディというまあそれなりに見かける名前も「珍しい名前」になったりもします。

今から考えるとこの三週間の経験がなかったら今の僕がなかったのかもしれない事の一つです。僕の知っていたアメリカはそれまでは中流以上のアメリカ。裕福ではなくても貧しくもないそういう人たちからしか知りませんでした。ところが貧しい所では本当に貧しいという事を体を持って知る事になりました。アメリカの貧困は社会構造上、貧困だと貧困から抜け出すのがものすごく難しくなっています。そのために何世代も貧困状態に陥っている家庭は珍しくありません。その割合が南部ではものすごく多いのです。教育制度も全く悪く産業もない。したがって収入も少ない。収入がない家庭ばかりなのでその周辺全体が貧困。周辺が貧困だからその辺りの学校にも予算がない。となるのです。我々日本人からはちょっと考えられない悪循環の繰り返しが何世代も続いているのですから不思議な話です。解決策はありませんがアメリカという国の影を見たようなそんな不思議な経験でした。

南部は元々は農業、特に綿花を栽培してそれを輸出していたのですが奴隷制度の禁止に伴って綿花の栽培の効率が悪くなり貧困して行った、というのがまあ単純な歴史です。また教育をロクに受ける事のなかった元奴隷たちがいた事も影響しているらしいです。そうした文化的、歴史的な背景も同時に学びました。

文化的な面で僕が驚いたのはルイジアナでは食べ物がおいしかったという事。現地ではケイジャン料理クレオール料理などの本場でよく食べられていてアメリカの他の土地とは少し違う食文化がある土地でした。中でも僕は実はザリガニ料理、特に茹でザリガニがけっこう好きでオマハに戻ってからでも何度かスーパーで売っているのを買って食べたりもしました。

文化的な勉強の一環としてニューオリンズに一日行った事もありました。市内の観光をグループでしました。その時に今でも覚えているのが怪しげな手相占いのオッサンに手相を見てもらった事。セント・ルイス大聖堂を出たすぐ先の所で手相を読んでいたオッサンでしたが同じグループの誰かが手相を読んで貰ったのでみんなで読んでもらう事になりました。一番ビックリしたのは「あなたは三年以内に結婚します」とか言われた事…。う〜ん、大ハズレですね。それから二十年以上になりますが未だに独身ですから。それから三年後の時にはそもそも誰とも付き合ってすらいませんでしたし…。まあ占いなんてそんな物か、と思っていますが…。

他にも綿花のプランテーションの跡地の見学に行ったりと文化的な事もいろいろとしました。地元の人達との交流もあり、近所の子どもたちと遊んだりもしたのをよく覚えています。ある意味でアメリカの本当の田舎に触れたそういう体験でした。

ルイジアナに限った事ではないのですが南部は複雑な歴史から未だに立ち直っていないそういうところがある不思議な所だと本当に思いました。産業がないから経済基盤がない。だから教育水準が一般に悪い。教育水準が悪いから大した仕事もない。だから経済的にも恵まれない。そういう悪循環の繰り返し。システムとしては社会主義の様に政府に面倒をみてもらった方が絶対に教育水準も経済水準もよくなるのでは?という気はしますがそれでも共和党を基本的に支持して民主党は絶対に嫌という人も多い。どうして?と不思議でなりません。

ここまで書いてそういえば思い出した事が一つ。あの時、帰りにちょっとエラい目にあっているのです。帰りは早朝に出発して基本的にはガソリンと時々の休憩以外はどこにも止まらずに帰る予定だったのですが途中、ミズーリ州のセントルイスとカンザスシティーの中間にあたるコロンビアで車が故障。具体的にどういう故障だったのかは記憶が定かではありませんがそこの修理工場で三時間程足止め。ようやく直ってからオマハを目指します。が、オマハ直前のアイオワ州のハンバーグという街の手前で車から煙が上がって車を路肩に停める事に。停まってエンジンを切ってもまだ煙が上がっていてよくよく見たら車体の下側が引火していたからビックリ仰天。たまたま通りかかったトラックのオジサンたちから消火器を借りて慌てて消火する、という事がありました。あの時は本当にビックリしました。幸か不幸か、停まってくれたトラックの人たちはオマハまで向かう途中だったのでそのままトラックに乗せてもらってオマハまで無事、帰る事ができたという最後の最後でちょっと恐ろしい目に遭いました。結局、オマハに帰還したのは夜になってから。夏至に近い頃だったにもかかわらず暗くなってからようやく帰宅できた(それも荷物は翌日回収だったはず)という結末でした。当時は母もまだちゃんとしていてオマハに戻ってから母に電話をして話をしたのを覚えています。

実の所あの夏がなかったら人生はある程度変わっていたのかな、と時々考えます。あの夏がなかったらおそらく、クレイトン・ハウスに住む事もなかったはず。それがなかったらドミニカ共和国に行く事もなかったはず。そうなったらやっぱり人生が違っていたのだろうなあ、と思えてなりません。

2015年8月 5日 (水)

植物盲目

Plant blindnessという言葉をご存知でしょうか?僕の知る限りでは日本語にplant blindnessという言葉はない様で強いて日本語にすると「植物盲目」となります。ようするに「植物の事を気にかけないので見えていないのと同じ」という事です。僕は基本的には植物が目に入らない傾向、もっと具体的には植物が背景となってしまうのであえて見ようとしないと気がつかないのである意味で植物盲目です。

自分にそういう傾向がある、と初めて知ったのは二十年程前にドミニカ共和国に行っていた頃の話です。ドミニカにいた時の授業の一つがイスパニョーラ島の植物と鳥に関する授業だったのですが鳥の部分はなんとかなっても植物の部分が辛かったのです。知識的に覚える事はできても実際に現物を見ても違いを事細かく教えてもらわないと全くわかりません。この時に「自分は植物に向いていない」と自覚をしました。

まあ考えてみるとこれでも一応、都会育ちで家には庭がなかった様なものだったのであまり植物と直接関係のある生活をしながら育ったわけではありません。更に学生の時は植物にかまったいる暇がないそんな生活をしていたので植物をあえてしげしげと見る習慣があまりなかったのですね。

その状況はそれから何年もたった今でもそれ程違ってはいませんがそれでもこの十年程は日々の生活に以前よりは余裕が出てきたのとアパートではなくて家に住む様になって庭があるので少しは植物を眺める習慣も出てきました。もちろん、庭仕事で一番かかわるのが芝刈り。従ってまあ詳しいのが芝の事。芝でも色々な種類があって手のかからない芝から手のかかるほぼ雑草の芝までいろいろとあります。基本が庭仕事をしたくないのでできるだけ手のかからない芝の方が楽。また僕はヘビが大嫌いなのでヘビよけの意味も含めて定期的に芝刈りをする様にしています。短く刈ってある所だとヘビは敵に見つかりやすいのであまり出てこない傾向にあるからです。

今の家の前に住んでいた所では前の住人たちが庭の手入れをしていた痕跡がほぼなく、どちらかと言えば荒れ放題の状態。そういう中に僕が住みはじめてある程度庭の手入れをした、というパターンがほとんど。従って芝の手入れをしてほぼ雑草な芝を駆除してちゃんと芝を植えて、という作業がほとんど。それは今の所でも若干、そういうところがあるのですがそれでも家の東側にはバラが植わっていたりしています。基本的にはそういう物も自生状態なのですがバラなので放っておいても花が咲きます。そういう花を時々眺める、という事は以前からもしていました。

Rose
まあ基本的にはそれ程興味がある事でもないのでちゃんとしていれば何でもいいや、というスタンスです。

それでも一応は科学者なので庭仕事の最中にふと気がついた事があったりすると「ふ〜ん」と思ったりする事もあります。例えば数年前にトマトを植えた時。その夏は最初の頃はなかなか暖かくならず、トマトが赤くなるまでしばらくかかりました。最初に赤くなった実は地面近くに生えた実で割と早い時期に虫に食べられてしまった物でそれがどの実よりも先に真っ赤に実りました。その話を植物学者のV先生に「どうしてか?」と聞きに行ったりもしました。

他にもギンナンをもらった時桜っぽい木を見かけた時などには注意して観察してという事はあります。当然、植物は専門ではないので手っ取り早いのは先ほどの植物学者のV先生かもう一人の植物学者(であり僕の今の彼女)に教えてもらう事です(う〜ん、これで調べたら僕の彼女が誰なのかバレるという話もある…)。

種明かしをすれば僕が彼女と話をする様になったのはそもそも庭の周りの植物に関する質問をしに行った辺りが始まりです。もっとも最初の頃は彼女の事はかわいいな、とは思っても誘おうとは全然思っていなかったのですが(そもそも話はしてもそこまで相手の事を知りませんでしたし…)。

そういう植物盲目の僕が植物学者と付き合っていいのか?という疑問はかなり前からありました。植物盲目の僕だと釣り合わない様な気がしてならないからです。まあそれでもそれはそれで彼女と付き合いはじめて定期的にデートに行く様になってしばらくしたある日、彼女に「そのうち少しずつでいいから僕の『植物盲目』を直すの手伝ってね」とお願いをしました。やはり彼女が植物学者の手前僕が何もわからないと都合が悪いな、と思うからです。その一環として植物園に行こうよ、という話はあったのですがそれが彼女のネコの事があった週末。それ以来、ずいぶんと長い間、植物園には行かなかったのですがようやく五月の半ばに二人で夕方から行ってきました。それまでは冬だったりお互いに忙しかったりで先延ばしになっていたのです。

また彼女に言わせれば僕の植物盲目は「重症ではない」との事。その根拠として彼女の所に何度も植物に関するいろいろな質問を持って来たりしているからだそうです。彼女に言わせれば「本当の植物盲目だとそういう質問がそもそも出てこない」との事。でも僕としては科学者として考えて物を見た時に初めて気がつく物で不思議に思ったら質問をする、というスタンス。やっぱり基本的にはしげしげと眺めないと植物の事をあえて考えるという事をしません…。

と思っていてある時彼女と話をしていてビックリしたのが「でも本当にひどい人は写真を見せて『この中で生物はどれですか?』と尋ねたら動物の名前しかあげない人がいるからあなたのレベルはそれほど重症ではないわよ」との事。更に僕の場合はふと目についた物がどうなのか?という事を訊いてくるので彼女に言わせると僕は植物盲目ではないとの事。そうなのかなあ?という気はしますが…。どちらにしても彼女が植物学者であるからもう少しよく普段から見る様にしないとな、と気をつけているこの頃です。

2015年8月 2日 (日)

出張の最後に(2015年夏)

先日も書いた様に、今週はずっと出張でした。月曜日にオマハを出て金曜日の朝までロングアイランドの国立研究所にいました。今回は元々は十月の学会で発表する事の実証試験がメインだったのですが毎回の様にだんだんとする事が増えて行きました。まずは現地の共同研究者たちとの打ち合わせ。そして六月まで行われていた加速器の衝突実験の終了に伴う反省会に参加。そこから二つ程他にも雑用の様な事が出てきたのに加えて更にはしばらく前から僕がやっている実験制御の新しいシステムの為に機材をいくつかオマハに持って帰って来る、と最終的にはそれなりにする事がありました。

それでも前倒しに作業をして火曜日は夕食後、夜に一度実験場まで戻って十月の学会での発表内容に関わる実証試験を無事終了。水曜日の午前中に衝突実験の反省会に参加。そこから派生してきた仕事を午後に済ませる事に。どちらも無事に終了しました。木曜日の昼前には共同研究者たちと打ち合わせをしてこちらも何とか終了。実は木曜日の午後早くには必要だった事をほぼすべて終了しました。

一日だけ夜になってからまた働くという事をしましたが三日間で無事に終了させる事ができる程度のちょうどいいぐらいの量の仕事でした、今回は。まあ元々、予定を立てた段階で三日ぐらいでなんとかなるであろう、と予測はしていましたがまさにその通りになりました。BNLの方ではCERNと違ってそれほど友人が多くないのでいる時間のほとんどを仕事に費やす事ができます。それもある意味で利点と言えば利点です。

宿泊先は例によって研究所の宿泊施設。ここもまあ、いつもの様にボロい所ではあるのですが少なくとも今回はまあ快適でした。入ってすぐに確認したのは部屋の冷蔵庫。それなりの確率で冷蔵庫が冷えない事があるからです。冷蔵庫がちゃんと冷えたら半自炊の予定でしたが案の定、冷蔵庫は全く冷えない状態。まあ賞味四日にもならない程度なので今回は基本的には外食で済ませる事に。以前にこういう冷蔵庫があっても機能していない部屋に泊まった時は文句を言ったのですが結局、冷蔵庫は故障したままだった経験上、今回は文句も言わない事に。そうしたら水曜日の夕方によく見たら冷蔵庫が新しい物に交換されていました。ちゃんと冷えるのでその晩のうちに二日分の朝食になる様な物と翌日の夕食になる様な物を買いに行ってきました。なんだ交換してくれるなら入居時に教えてくれてもいいのに…。まあ別に驚きはしませんでしたけど。

夏のこの時期にBNLに行くともう一つの「問題」は夏のインターンの学生が沢山いる事。それはそれでまあいいのですが彼らは若いので遅くまで宿舎で騒いている、という事がよくあります。前回も前々回も夏に来た時はそれで悩まされるという事があったのですが今回はそもそも与えられた部屋が宿舎のロビーから一番遠い所にあった事もあってか全く問題はなし。そもそもそれほど学生たちがいないのでは?と思うぐらい全般的に静かでした(が宿舎の駐車場に停められていた車の数から判断するにそれなりに人がいたはず…。最近の学生たちは静かなのでしょうか?)。まあ快適な分には文句もありません。

それでも数日は外食をしました。まあ行くとしたらある程度は行く先も決まっています。まずはシーフードのお店へ。

Seafood

こちらはまあ定番のポート・ジェファソンという街にあるお店です。行った時はたまたまレジが瞬電でリブートされた直後。すぐには対応してくれませんでした。暗算ができないアメリカ人が多いのでレジが使えないとどうにもならない、というのはよくある話です。まあレジが使えないとカード支払いができないのでどのみち買えないという話もあるのですが…。

翌日の水曜日はロングアイランドで一番おいしい日本食レストランへ。

Sushi

この数年は毎回、必ず行く様にしています。前回行った時(一年ちょっと前ですね)は少し遅い時間に知り合いと食べに行ったらエラく混んでいたので今回は早い時間に行く事に。五時開店なので五時半ぐらいに到着する様に行ったら基本的にはがら空きでした。個人的に僕が行った店ではアメリカで一番お寿司のおいしいお店の一つだと思います。まあ海の近くだからネタがおいしいのは当たり前と言えば当たり前なのですが…。今回は最後に女将さんが抹茶アイスクリームをサービスしてくれました。暑かったのでうれしかったです。

Ice_cream

さて金曜日は朝にCERNと繋いでミーティングがあったのでそちらに参加してからニューアーク空港まで直行する事に。飛行機の時間は五時四十五分なので理論的には四時頃までに到着していればいいわけですがニューアークからBNLまで三時間以上かかった事を考慮すると四時到着になると一時にはBNLをでなければなりません。逆に言えばそれまでに出ればいつでもいいのですがその段階でそれほど用事も残っていなかったし場所的にニューヨークを通過する事になるので早く出ても特に損はありません。そう考慮してBNLを出たのは十時過ぎぐらい。

来るのにはニューアークを出てすぐにちょっと道を間違えたのでマンハッタン経由になりましたがスタントン・アイランドを通過した方がどう考えても楽です。来る時の失敗はニューアークからBNLまでiPhoneのマップアプリで案内させたらスタントン・アイランド経由に指定したにもかかわらず道を間違えた段階で計算しなおされた時にアプリがマンハッタン経由の道に切り替えられた事によります。今回、そういう事になっては困るのでまずはスタントン・アイランドの適当な場所を選んでそこまで行く道順を表示させる事に。そうすれば嫌でもスタントン・アイランドに行く事になるからです。その場所の近くまで到着したらその近辺で車にガソリンを入れて満タンにしてからニューアーク空港までの道順を指定すればいいだろう、と判断をしました。

結果的にこれは大成功したのですがしかしまあ時間のかかった事。結局、BNLからニューアークまで三時間弱かかりました。途中で何度か工事などによる交通規制などで渋滞があったからなのですが田舎に住んで運転をしているとやはり都会の知らない道で運転するのには気をつかいます。エラく疲れてしまいました、全く。途中の料金所で少し恐い目にも遭いましたし…。まあそれでも行きにマンハッタンではもっと恐い目に遭いましたからそれよりもずいぶんとましなのですが…。まあ次にニューアーク経由でBNLに行く事があったら次はロングアイランドのロンコンコマ駅まで鉄道に乗ってそこから車で行きます。ラガーディア空港からならまだしもニューアークから運転は次はありえませんね、今後は…。

さて空港に到着したのは一時頃。一応、チェックインは前日の晩にオンラインでしているのですが荷物を預ける為にサウスウェスト航空のカウンターまで向かいます。ところがサウスウェスト航空は四時間以上前に荷物を預ける事ができないので列について待った後で門前払いの形に。一応、交渉してみましたが「四時間前になるまで待って下さい」の一点張り。やれやれ。

まあそれほど長い間待たなくてもいい程度の時間だったのでまずは昼食を食べる事に。時間も余っていたので今回はあえて空港のファーストフードではなく空港のレストランに入る事に。レストランの方が時間を潰すのには都合がいいであろう、と判断をしたのです。そこで食べたのがこちら。

Lunch

空港のレストランであるという事を考慮したらまあまあ。ちょっと高めなのはまあどうしようもないですね、場所が場所だったので。それでもちょうどいい具合に時間を潰す事ができました。

それから荷物を預けて身軽になってからゲートまで向かいます。もっともゲートまで行ってもする事も無く三時間程、辺りをウロウロしただけなのですが…。空港に早く着きすぎるとこうなるのですね。しかしその反面、空港でぼんやりと他の便で別の所に行く人たちを見ていたらゲートが閉じられる直前の最後の最後までゲートまで来ていた人たちがたくさんいました。中には乗り遅れた人たちも若干いる様で、どの人も「渋滞が予想以上に悪くて空港に来るまで時間がかかった」と言って居ました。そう考えると確実なのは早く来る事ですからね。まして今回はどのぐらい時間がかかるのかがよくわかっていませんでしたから…。

さてニューアークからまずはセント・ルイスまでです。この飛行機はほぼ満席。最近はそういうパターンが多いですから別にそれほど驚く事でもありません。ちょっと困ったのが隣に座っていたお兄ちゃんが大股開きで座って僕の席の方まで膝を出してきた事…。しかも寝ていてだんだんとそうなるのですから始末におえない話です。その上で貧乏ゆすりもしていましたし…。まあそのうちなんとかなりましたけど。もうちょっと落ち着いた乗り方ができないのか?とちょっと不思議。

セント・ルイスには無事到着。そこで夕食を食べてオマハ行きの飛行機を待ちます。その間にメールをチェックして先週だかに提出した十月にオーストラリアである学会の補助金が500ドル分、大学の研究支援のオフィスから出る事になったと知ります。まあ友人が管理している補助金なので「多分なんとかなる」との話でしたがそれでも500ドルの補助金はうれしいです。他にもセント・ルイスでいくつかメールの返信をしておきます。以前は移動日には何もできなかった物ですが便利になったのかそれとも移動日に仕事をする事になってしまう様になったのか…。同時にその間に家の空調を入れて家の温度を下げておきます。ネット接続されている冷暖房だとこういう時に便利ですね。遠隔操作で何でもできますから。

オマハ行きの飛行機は乗客率が三分の二程度。したがってかなり空いた便でした。最近では珍しい話ですね。クルーの方でも早くオマハに到着したかったのかなんと十五分程度早く飛行機のドアを閉めてしまったぐらい。サウスウェスト航空では時々ある事ですがクルーがかなり冗談好きで冗談交じりの機内放送ばかりでした…。最近は飛行機のルートの変更など(以前はオマハからシカゴ経由でロングアイランドの空港まで飛べたから便利だったのですが最近はそれができなくなった)であまりサウスウェスト航空に乗っていませんでしたが少し懐かしい話です。今回サウスウェストにしたのは出張の日程を変える可能性があったから(サウスウェスト航空は日程の変更に伴う料金は差額のみで手数料や罰金がないのです)。まあ最終的には変更をしなかったのですけど…。

セント・ルイスを出たのが早かったのでオマハ到着も当然の様に早かったです。ボスが迎えに来るはずだったのですがゲートにはいないので荷物をまず回収する事に。回収してからもまだボスの姿が見えません。しかたがないから外に出て待つ事に。外に出た段階でメールを送ったらしばらくしてから「今行く」との返信。ところが十分以上経っても来ません。おかしいなあ、と思いながら結局、三十分以上してからようやく来ました。時間がかかっている段階でこれは何らかの理由で僕がメールを送った段階でまだ自宅にいたのだろうな、と思ったらやはりその様でした…。まあオマハの空港だと何とかなるのですけどね(以前、一度だけ迎えが忘れてどうにもならなくてどうしようか?でも結局何とかなった)。

最後の最後で少し時間がかかる事になりましたが無事に家に戻ったのが夜の十二時半ぐらい。それからその夜は荷物も片付けずそのままベッドに直行。翌朝は起きてからまず荷物を開いて洗濯をしてそれからようやく出張の片付けです。午後には少しだけ職場に出張に持って行った物や持って帰ってきた物を職場に置いてきて少しだけ職場の状態の確認です。一週間だけとは言えども留守の間にいろいろある事があるので確認などです。明日(日曜日)は少し仕事に行く予定です。ともあれオマハに戻れてやっぱりほっとしました。田舎と言われても僕にはこのぐらいがちょうどいいな、と今さらながら思うそういう出張でした。

2015年8月 1日 (土)

母を想う

母が亡くなってこれで十年になります。実は母が亡くなった時はかなりショックでした。手元に残っている記録では十年前の七月三十一日は日曜日。当時はまだメール環境が今ほどは整備されていなくて日本語のメールを受け取っても文字化けする事が多かったので日本語のメールには別のアカウントを使っていて別のメールソフトを使う、という今からはちょっと考えられない事をしていました。日曜日だったのもあってその日本語のメールをチェックしたのは午後遅くになってからでした。そうしたら叔母からメールが二通届いていてどちらにも母が亡くなった事が書かれていました。

その二週間程前に叔母から届いたメールでは母は相変わらず意識がない状態で生きていたので「一体何があったのか?」とかなりのショックを受けたのを覚えています。いつかは訪れる事なのだけどまさかそんな急に母が亡くなるとは考えもしませんでした。心の中のどこかでいつかは来る事。でもおそらく緩やかに状態が悪くなって行って何らかの兆候があるのであろう、と僕はずっと思っていました。緩やかに状態が悪くなるのであればそのうちに誰かが何かを言って来るであろう、と思っていたのですが…。

実は十年後になる今でも実際に何があったのかははっきりしていません。兄に聞いても何となく釈然としない答えしか返って来ません。叔母の方は兄に訊くように言うので何かがあったらしい事は確実ですが何があったのかは定かではありません。僕にわかっている事は十四年間の入院生活の果てにある意味で母は忘れられた存在になってしまっていたらしいという事。父はロクに母の所に行かなかったらしいですしあまりの状態に母の身の回りの世話をしていた方が父に何かを言ってそのまま辞めてしまうという事もあったらしいです。母があってからこその家であった事を父はどうも理解していなかったらしいですからまあ不思議ではないのですが…。

僕が母の悲報を見たのはオマハ時間で七月三十一日の午後遅く。日本では既に翌朝の八月一日になってしまっていました。その段階では既に葬儀がいつなのかも決まってしまっていて通夜が八月二日(一日は友引だったので二日になったのです)。オマハから金沢まではどんなに頑張っても移動時間だけで二十四時間かかります。また飛行機の時間の関係上、どうしても出発は早朝になります。したがってどんなに早くオマハを出れてもオマハ時間で翌朝の八月一日まで出る事はできません。それから金沢に到着できるのはだいたい夜の十時か十一時ぐらいになるのでどんなに計算しても通夜にはちょっと間に合わない計算になります。もちろん、それは航空券の手配ができての話。

最終的には母の葬儀には参加しない事にしました。母がもし生きていたら何と言っただろうか?という事を考えました。合理主義の母の事だからきっと僕に「死んでから葬式に来てもらっても全然ありがたくない」と言っただろうな、と思われます。科学に従事していた人間として母はそもそも生きていた頃からそういう事を言う人でした。そういう意味でも思想的には僕はかなり母の影響を受けているのは間違いのない事です。

すぐに身動きができなかったのにはもうひとつ理由があります。その日は日曜日。仕事を休むにしても翌日まで待たないと何の手続きもできないからです。実はちょうどその週は人が出払っていたそういう問題もありました。確か化学のボスは二日程留守じゃなかったかな?大学三年生の時に母が倒れた事を知っていた人たち、および近い友人たちには話をしたかったのですがその時にいたのはほんの数名。うちの学部は母の事情を知っていた人はほぼ全員、学会で留守、もしくは休暇を取っていました。何の事情も知らない人たちからなんだかんだと言われるのが嫌なのでそういう人たちには母が亡くなった事も言わずにおきました。僕は本心ではない事をそういう慣習だという理由だけで言われるのが嫌なのです。どうでもいい世間話が嫌いなのと基本的には理屈が同じなのです。

当然の様に、大学の方には申告はしていません。実はこの二年程後に父が亡くなった後で知ったのですが本当は家族、親戚の葬儀の時には大学の方としても申告をしてほしい、との事らしいです。葬式に花を贈ったりしたりという事をする為らしいですがしかし事情も知らず、それもアメリカから葬儀に花を贈られたらかえって迷惑ではないかい?という気が僕にはしてなりません…。僕はこれもすべて「まっぴらごめん」と思いました…。

その当時の事は実はかなり記憶があやふやです。仕事に行った記憶はあるのですが二、三日程は何も手がつかず食事もまともに取らなかったし作るのも買い物に行くのももっと嫌だった事は覚えています。その時に一番会いたかったのはその数年前までしばらく付き合っていた子。元々、友人から発展してちょっと付き合う事になったというちょっと複雑な経緯があったのでしばらくは疎遠になっていたのですが一番会いたいと思ったのはその子。数日考えた末にメールでその子ともう一人、別の子には連絡だけは入れておきました。当時はその子はまだ研修医で時間がにっちもさっちも行かない状態だったので会いたくても会えない状態で結局、電話すらなくそのままになってしまいました。

覚えているのは夜になって一人でいるのがとにかく嫌だった事。別に母が亡くなったといって何かが具体的に変わったわけではありません。合理的に考えてあまり状況は変わってはいません。母は脳幹で脳出血が起こったので自発呼吸をしていても様態がそのうちよくなる見込みもありません。だからそういう意味では生きてはいても生きていないに限りなく近い状態、と表現する事もできると思います。しかしやはりそう簡単にこういう事は割り切れなくて十日ぐらいかなあ、仕事には行ってちゃんと生活していてもどこか塞ぎこんでいました。記憶があやふやなのもまあそういう理由です。

そういえばそのすぐ後、もう一人の以前、少し付き合っていた子にキャンパスで遭遇しました。秋学期の授業が始まるちょっと前になってたまたまキャンパス内を歩いていたら元カノの子に遭遇。この子もちょっと複雑な事情があって疎遠になってはいましたが母が亡くなった事は教えてあったのですがほぼ立ち直った頃に偶然にキャンパスで遭遇。オマハで学校の先生をしていたので大学に少し用事があってやって来ていた所だったとの事。でもあんまり僕の事を心配している様な事は言ってくれませんでした。彼女に会ったのはそれが最後じゃないかなあ。その時に以前はあれだけ好きだったのにもうそういう感情がお互いになくてほぼ他人になってしまっていたのがすごく不思議に思えたのはよく覚えています。その時は昼過ぎにミーティングがあったので五分程立ち話をしただけでした。これも懐かしい思い出と言えばそうなのかなあ。

ともあれあれからこれで十年です。最近、いろいろな意味で母の事をよく考えてしまいます。今の僕を見て母はどう思うだろうなあ、と思いますし、もし母がいたらどうだっただろうかなあ?とかそういう事が多いです。母が脳出血で倒れた時、僕はまだ二十代の前半で学生だったからまだ世の中もわかっていませんでした。もう少し母と大人の会話ができた時間が長かったらよかったのに、という事も考えてしまいます。もっと親孝行してあげたのになあ、とも思いますし…。悔いのない人生って難しいな…。

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