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2015年8月 1日 (土)

母を想う

母が亡くなってこれで十年になります。実は母が亡くなった時はかなりショックでした。手元に残っている記録では十年前の七月三十一日は日曜日。当時はまだメール環境が今ほどは整備されていなくて日本語のメールを受け取っても文字化けする事が多かったので日本語のメールには別のアカウントを使っていて別のメールソフトを使う、という今からはちょっと考えられない事をしていました。日曜日だったのもあってその日本語のメールをチェックしたのは午後遅くになってからでした。そうしたら叔母からメールが二通届いていてどちらにも母が亡くなった事が書かれていました。

その二週間程前に叔母から届いたメールでは母は相変わらず意識がない状態で生きていたので「一体何があったのか?」とかなりのショックを受けたのを覚えています。いつかは訪れる事なのだけどまさかそんな急に母が亡くなるとは考えもしませんでした。心の中のどこかでいつかは来る事。でもおそらく緩やかに状態が悪くなって行って何らかの兆候があるのであろう、と僕はずっと思っていました。緩やかに状態が悪くなるのであればそのうちに誰かが何かを言って来るであろう、と思っていたのですが…。

実は十年後になる今でも実際に何があったのかははっきりしていません。兄に聞いても何となく釈然としない答えしか返って来ません。叔母の方は兄に訊くように言うので何かがあったらしい事は確実ですが何があったのかは定かではありません。僕にわかっている事は十四年間の入院生活の果てにある意味で母は忘れられた存在になってしまっていたらしいという事。父はロクに母の所に行かなかったらしいですしあまりの状態に母の身の回りの世話をしていた方が父に何かを言ってそのまま辞めてしまうという事もあったらしいです。母があってからこその家であった事を父はどうも理解していなかったらしいですからまあ不思議ではないのですが…。

僕が母の悲報を見たのはオマハ時間で七月三十一日の午後遅く。日本では既に翌朝の八月一日になってしまっていました。その段階では既に葬儀がいつなのかも決まってしまっていて通夜が八月二日(一日は友引だったので二日になったのです)。オマハから金沢まではどんなに頑張っても移動時間だけで二十四時間かかります。また飛行機の時間の関係上、どうしても出発は早朝になります。したがってどんなに早くオマハを出れてもオマハ時間で翌朝の八月一日まで出る事はできません。それから金沢に到着できるのはだいたい夜の十時か十一時ぐらいになるのでどんなに計算しても通夜にはちょっと間に合わない計算になります。もちろん、それは航空券の手配ができての話。

最終的には母の葬儀には参加しない事にしました。母がもし生きていたら何と言っただろうか?という事を考えました。合理主義の母の事だからきっと僕に「死んでから葬式に来てもらっても全然ありがたくない」と言っただろうな、と思われます。科学に従事していた人間として母はそもそも生きていた頃からそういう事を言う人でした。そういう意味でも思想的には僕はかなり母の影響を受けているのは間違いのない事です。

すぐに身動きができなかったのにはもうひとつ理由があります。その日は日曜日。仕事を休むにしても翌日まで待たないと何の手続きもできないからです。実はちょうどその週は人が出払っていたそういう問題もありました。確か化学のボスは二日程留守じゃなかったかな?大学三年生の時に母が倒れた事を知っていた人たち、および近い友人たちには話をしたかったのですがその時にいたのはほんの数名。うちの学部は母の事情を知っていた人はほぼ全員、学会で留守、もしくは休暇を取っていました。何の事情も知らない人たちからなんだかんだと言われるのが嫌なのでそういう人たちには母が亡くなった事も言わずにおきました。僕は本心ではない事をそういう慣習だという理由だけで言われるのが嫌なのです。どうでもいい世間話が嫌いなのと基本的には理屈が同じなのです。

当然の様に、大学の方には申告はしていません。実はこの二年程後に父が亡くなった後で知ったのですが本当は家族、親戚の葬儀の時には大学の方としても申告をしてほしい、との事らしいです。葬式に花を贈ったりしたりという事をする為らしいですがしかし事情も知らず、それもアメリカから葬儀に花を贈られたらかえって迷惑ではないかい?という気が僕にはしてなりません…。僕はこれもすべて「まっぴらごめん」と思いました…。

その当時の事は実はかなり記憶があやふやです。仕事に行った記憶はあるのですが二、三日程は何も手がつかず食事もまともに取らなかったし作るのも買い物に行くのももっと嫌だった事は覚えています。その時に一番会いたかったのはその数年前までしばらく付き合っていた子。元々、友人から発展してちょっと付き合う事になったというちょっと複雑な経緯があったのでしばらくは疎遠になっていたのですが一番会いたいと思ったのはその子。数日考えた末にメールでその子ともう一人、別の子には連絡だけは入れておきました。当時はその子はまだ研修医で時間がにっちもさっちも行かない状態だったので会いたくても会えない状態で結局、電話すらなくそのままになってしまいました。

覚えているのは夜になって一人でいるのがとにかく嫌だった事。別に母が亡くなったといって何かが具体的に変わったわけではありません。合理的に考えてあまり状況は変わってはいません。母は脳幹で脳出血が起こったので自発呼吸をしていても様態がそのうちよくなる見込みもありません。だからそういう意味では生きてはいても生きていないに限りなく近い状態、と表現する事もできると思います。しかしやはりそう簡単にこういう事は割り切れなくて十日ぐらいかなあ、仕事には行ってちゃんと生活していてもどこか塞ぎこんでいました。記憶があやふやなのもまあそういう理由です。

そういえばそのすぐ後、もう一人の以前、少し付き合っていた子にキャンパスで遭遇しました。秋学期の授業が始まるちょっと前になってたまたまキャンパス内を歩いていたら元カノの子に遭遇。この子もちょっと複雑な事情があって疎遠になってはいましたが母が亡くなった事は教えてあったのですがほぼ立ち直った頃に偶然にキャンパスで遭遇。オマハで学校の先生をしていたので大学に少し用事があってやって来ていた所だったとの事。でもあんまり僕の事を心配している様な事は言ってくれませんでした。彼女に会ったのはそれが最後じゃないかなあ。その時に以前はあれだけ好きだったのにもうそういう感情がお互いになくてほぼ他人になってしまっていたのがすごく不思議に思えたのはよく覚えています。その時は昼過ぎにミーティングがあったので五分程立ち話をしただけでした。これも懐かしい思い出と言えばそうなのかなあ。

ともあれあれからこれで十年です。最近、いろいろな意味で母の事をよく考えてしまいます。今の僕を見て母はどう思うだろうなあ、と思いますし、もし母がいたらどうだっただろうかなあ?とかそういう事が多いです。母が脳出血で倒れた時、僕はまだ二十代の前半で学生だったからまだ世の中もわかっていませんでした。もう少し母と大人の会話ができた時間が長かったらよかったのに、という事も考えてしまいます。もっと親孝行してあげたのになあ、とも思いますし…。悔いのない人生って難しいな…。

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