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2015年8月10日 (月)

ルイジアナで

もうずいぶん昔の話になりますがまだ学生だった頃のある夏、うちの大学で神学で社会正義の授業を取った事があります。うちの大学はカトリック系、それもイエスズ会系なので神学や哲学をいくつか取らなければならない様になっています。この僕が取った授業は当時は夏の間だけ教えられていた授業で三週間、ルイジアナ州の田舎町に行ってそこで昼間はボランティア活動をして夜にディスカッション主体の授業が行われる事になっていました。人数的な制約もあるので毎年、参加する人数もせいぜいで十名程度というかなり特種な授業でした。

元々は授業を取って旅行もできておもしろいだろう、と思ってわりと軽い気持ちで取る事にしました。授業がかなり特種なので授業の登録時に特別許可証を貰って、という事でまず教えている先生に話をしに行きました。たまたまその年はその授業に参加したのは女の子ばかりで面白くない、と思っていた所に僕がやってきたのですぐに許可証をもらえました。

さて夏休みに入ってすぐの頃、五月の半ばに出発です。大学から大学所有のバンに乗ってルイジアナ州のグラン・コトーなる街まで出発です。運転は交代交代でみんなが運転しました。途中でミズーリ州のセントルイスで一泊してグラン・コトーに到着。それからまずは宿舎になる所でミーティング。翌朝から実際に仕事にとりかかります。

南部に行くのは僕はそれが始めて。話には聞いていましたがやはり南部、それもルイジアナの田舎の人たちの言葉が訛っている事!現地の人たちが言っている事を理解できる様になるまで一週間近くかかりました。ルイジアナの辺りだとかなり発音が異なっていてまるで日本で言えばズーズー弁を聞いている様なもの。

ルイジアナ辺りは元フランス領。その影響は現代でもあちこちに見られます。そもそもグラン・コトー、Grand Coteauなどは明らかにフランス語の地名ですね。他にもあちこちにフランス語の影響が見られる所。したがって現地の英語も若干のフランス語の影響を受けていてその上で元々は奴隷として連れて来られた黒人たちの現地の言葉も混ざって何とも言えないそんな不思議な訛りが存在する所です。名前も当然の様にフランス語の影響が多く、例えばケネディというまあそれなりに見かける名前も「珍しい名前」になったりもします。

今から考えるとこの三週間の経験がなかったら今の僕がなかったのかもしれない事の一つです。僕の知っていたアメリカはそれまでは中流以上のアメリカ。裕福ではなくても貧しくもないそういう人たちからしか知りませんでした。ところが貧しい所では本当に貧しいという事を体を持って知る事になりました。アメリカの貧困は社会構造上、貧困だと貧困から抜け出すのがものすごく難しくなっています。そのために何世代も貧困状態に陥っている家庭は珍しくありません。その割合が南部ではものすごく多いのです。教育制度も全く悪く産業もない。したがって収入も少ない。収入がない家庭ばかりなのでその周辺全体が貧困。周辺が貧困だからその辺りの学校にも予算がない。となるのです。我々日本人からはちょっと考えられない悪循環の繰り返しが何世代も続いているのですから不思議な話です。解決策はありませんがアメリカという国の影を見たようなそんな不思議な経験でした。

南部は元々は農業、特に綿花を栽培してそれを輸出していたのですが奴隷制度の禁止に伴って綿花の栽培の効率が悪くなり貧困して行った、というのがまあ単純な歴史です。また教育をロクに受ける事のなかった元奴隷たちがいた事も影響しているらしいです。そうした文化的、歴史的な背景も同時に学びました。

文化的な面で僕が驚いたのはルイジアナでは食べ物がおいしかったという事。現地ではケイジャン料理クレオール料理などの本場でよく食べられていてアメリカの他の土地とは少し違う食文化がある土地でした。中でも僕は実はザリガニ料理、特に茹でザリガニがけっこう好きでオマハに戻ってからでも何度かスーパーで売っているのを買って食べたりもしました。

文化的な勉強の一環としてニューオリンズに一日行った事もありました。市内の観光をグループでしました。その時に今でも覚えているのが怪しげな手相占いのオッサンに手相を見てもらった事。セント・ルイス大聖堂を出たすぐ先の所で手相を読んでいたオッサンでしたが同じグループの誰かが手相を読んで貰ったのでみんなで読んでもらう事になりました。一番ビックリしたのは「あなたは三年以内に結婚します」とか言われた事…。う〜ん、大ハズレですね。それから二十年以上になりますが未だに独身ですから。それから三年後の時にはそもそも誰とも付き合ってすらいませんでしたし…。まあ占いなんてそんな物か、と思っていますが…。

他にも綿花のプランテーションの跡地の見学に行ったりと文化的な事もいろいろとしました。地元の人達との交流もあり、近所の子どもたちと遊んだりもしたのをよく覚えています。ある意味でアメリカの本当の田舎に触れたそういう体験でした。

ルイジアナに限った事ではないのですが南部は複雑な歴史から未だに立ち直っていないそういうところがある不思議な所だと本当に思いました。産業がないから経済基盤がない。だから教育水準が一般に悪い。教育水準が悪いから大した仕事もない。だから経済的にも恵まれない。そういう悪循環の繰り返し。システムとしては社会主義の様に政府に面倒をみてもらった方が絶対に教育水準も経済水準もよくなるのでは?という気はしますがそれでも共和党を基本的に支持して民主党は絶対に嫌という人も多い。どうして?と不思議でなりません。

ここまで書いてそういえば思い出した事が一つ。あの時、帰りにちょっとエラい目にあっているのです。帰りは早朝に出発して基本的にはガソリンと時々の休憩以外はどこにも止まらずに帰る予定だったのですが途中、ミズーリ州のセントルイスとカンザスシティーの中間にあたるコロンビアで車が故障。具体的にどういう故障だったのかは記憶が定かではありませんがそこの修理工場で三時間程足止め。ようやく直ってからオマハを目指します。が、オマハ直前のアイオワ州のハンバーグという街の手前で車から煙が上がって車を路肩に停める事に。停まってエンジンを切ってもまだ煙が上がっていてよくよく見たら車体の下側が引火していたからビックリ仰天。たまたま通りかかったトラックのオジサンたちから消火器を借りて慌てて消火する、という事がありました。あの時は本当にビックリしました。幸か不幸か、停まってくれたトラックの人たちはオマハまで向かう途中だったのでそのままトラックに乗せてもらってオマハまで無事、帰る事ができたという最後の最後でちょっと恐ろしい目に遭いました。結局、オマハに帰還したのは夜になってから。夏至に近い頃だったにもかかわらず暗くなってからようやく帰宅できた(それも荷物は翌日回収だったはず)という結末でした。当時は母もまだちゃんとしていてオマハに戻ってから母に電話をして話をしたのを覚えています。

実の所あの夏がなかったら人生はある程度変わっていたのかな、と時々考えます。あの夏がなかったらおそらく、クレイトン・ハウスに住む事もなかったはず。それがなかったらドミニカ共和国に行く事もなかったはず。そうなったらやっぱり人生が違っていたのだろうなあ、と思えてなりません。

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